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【本】森田真円 / ひらがな真宗 (5)
(4)の続きです。
「どのくらいの位? * 現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」より
人間が決めた位は、人と人との関係を比べて、上下高低をつけますから、人を傷つけます。けれども、仏さまから定められた位は、誰かと比べてではなく、一人ひとりの人間それぞれに向けて、すなわち私自身に向けて定められた絶対的なものです。つまり、仏さまは人間一人ひとりに最高の価値を見出されていることになります。
親鸞聖人までは、この位は凡夫がずっと先に目指すべき目標でありました。けれども聖人は、今この人生において、信心の人はこの位に入っているといわれました。先にある目標ではなく、どんな人間にも最高の価値を見出そうとされる仏さまのよび声に目覚めたならば、すでにこの位に入っているのだと言われたのです。また、仏さまが定められた位ですから、我われが目指して手に入れる位ではありません。
たとえば、初めての知人の家を訪ねていくとします。家で待ってくれている知人と会おうとすれば、まず自分で家を探し家を目指さなければなりません。迷って家に着けなければ、知人とは会えません。
けれども、知人から自分の持っている携帯電話に連絡が入りました。知人の声を聞きながらその指示通りに歩むのですから、携帯に連絡が入ったそのときに、知人の家に間違いなく行けることは確定します。そればかりか、まだ出会っていない知人と、もうすでに話をしています。
この「知人の家」=「お浄土」、「知人に会う」=「仏さまに成る」としますと、携帯から知人の声が聞えたとき、すなわち仏さまのよび声が聞えて信心を得たときに、「知人の家」(お浄土)に往って、「知人に会う」(仏さまに成る)ことは決定しています。
つまり、現人生において、お浄土に往生して仏さまになることが決定した位に入っているのです。しかも、仏さまの本当の姿は目に見えませんが、「間違わずに家に来いよ」という仏さまのよび声を聞きながら安心して人生を歩めるのです。
「称えるこころ * 信因称報(しんいんしょうほう)」より
私たちが念仏をするのは、
「阿弥陀さまどうか助けてください」
と何らかの見返りを期待してよぶのではありません。
「たった一人でも私には阿弥陀さまがいてくださる」
という深い感謝の思いから阿弥陀さまの名前を称えるのです。
一人暮らしのおばあさんが、お仏壇に向かって、
「阿弥陀さま、ちょっと出かけてきます」
と挨拶をして、玄関を出られました。鍵を閉めて歩き出そうとしたそのときに、「南無阿弥陀仏」とお念仏を申されました。そのとたん、自分のお念仏の声を聞きながら、
「あらまあ! 今、ご挨拶をしたところなのに、もう私といっしょにいてくださる」
と嬉しそうにおっしゃったそうです。
他力の教えとは、このように力強いものです。見かけが雄々しい力強さではなく、たとえ弱々しくとも芯の強さがあります。なんといっても、阿弥陀さまがごいっしょなのですから。
「見えないほこり * 罪悪深重(ざいあくじんじゅう)」より
自分が気がつかないうちに行ってしまった悪いことは、悪いことをしたという意識がありません。ですから悔いることもありません。言葉を換えると、後悔しなければ、人は悪いとは感じないとも言えるでしょう。自分が悪いと気がついていないことはたいへん恐ろしいことではないでしょうか。
たいていの場合、自分が正しいと思っているもの同士が、争いになるものです。
「これだけしてやっているのにあいつはわかっていない」
とか、
「ここまで辛抱してやっているのに」
というように、「自分は悪くない」もの同士が争うのでしょう。
私たちは、知らないうちにどれだけ人を傷つけているでしょうか? 気づかないうちにどれだけの悪を行っているでしょうか?
人間が罪深いとか、凡夫であるというのは、自分で悪いとわかっている程度のことを指しているのではありません。
最近はサッシの雨戸が多いですが、かつては木の雨戸がありました。ふとんをあげているとき、朝日が木の雨戸の節穴から漏れてきます。細長い光の中に、無数のチリが舞い上がっている光景を見たものでした。光が入っていないところは何も見えないのに、光があたっているところを見れば、こんなにほこりやチリがあったのかと驚かされます。
仏さまの光に照らされれば、きっと自分では気がついてない、想像もできないような無数の罪深い行為とその結果があるのだと感じられます。
そして、同時に、その無数のほこりやチリは、温かい光に包まれているのです。ほこりやチリの量に驚きながらも、節穴からこぼれる光の美しさ・温かさを感じたものでした。
仏さまに照らされて罪深さを歎きながら、それだから救うという仏さまのお慈悲に抱かれている慶びがあるのです。また、仏さまに抱かれている慶びがあるにもかかわらず、自分中心から離れられないという歎きがあるのです。このように慶びと歎きとはワンセットなのです。
「凡夫やからなぁ… * 煩悩具足(ぼんのうぐそく)」より
真宗の歎きと慶びとはワンセットであると前項で述べましたが、単なる歎き、つまり南無阿弥陀仏のはたらきという慶びがバックにない歎きは、ただの反省や言い訳でしかありません。その証拠に「凡夫だから」と呟くのは、たいていの場合、事が終わってしまってからであります。腹立ちまぎれでなした事の言い訳や反省が真宗の嘆きではないのです。
(中略)
凡夫は縁にふれたら、怒りを爆発させます。しかし、怒りに震えながらも、その自分にいま現に、南無阿弥陀仏のお慈悲がはたらいているのです。そのお慈悲をいただいてこそ、煩悩と向き合いつつ煩悩がお慈悲を慶ぶ糧とさえなるのです。
煩悩具足を自分のしたことの言い訳にすれば、煩悩を単に肯定しているだけにすぎないのです。
「ええ所へ生まれる? * 往生浄土」より
仏教は「仏の教え」であるとともに「仏に成る教え」であると言われます。お釈迦さまが出家されたのは、悟りを求めてのことでした。悟りとは真理に目覚めることと言えるでしょう。その目覚めた方を仏さまと言います。お釈迦さま以来、仏教の教えを聞く人びとは、それぞれ、国や歴史は違っても、自らが人間の苦悩の根本を解決する真理に目覚め、同時に他の人びとを慈しむこと、すなわち、仏さまに成ることを目的とされました。
しかし、私たちは、どれほどこの「仏に成る」ことを望んでいるでしょうか? 悩んでも苦しんでも、その苦悩を造る根本を見ようとせず、ただ目の前の悩みや苦しみが解決さえすればよい、つまりは、自分が「楽になりたい」「楽しければそれでよい」と思うだけであります。そういう思いの延長線上だけで、お浄土を想えば、お浄土とは「死んでからいくええところ」でしかありません。今の私を見つめ、「仏に成る」ということを離れては、お浄土の世界も意味がありません。
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